下野国一社八幡宮:栃木県足利市

ご由緒・ご祭神
誉田別命(応神天皇)・大帯姫命(神功皇后)・姫大神

下野国一社八幡宮は、誉田別命(応神天皇)、大帯姫命(神功皇后)、姫大神の三柱をご祭神としてお祀りしています。
ご由緒は社伝によると、天喜4年(1056年)、八幡太郎の名で有名な源義家が、陸奥の豪族、安倍頼時父子を討伐(前九年の役)するため当社付近の大将陣に宿営し、戦勝を気が似て現在地に小祠を創建し、山城の国(現京都府)の男山八幡宮を勧請したといいます。
康平年間に凱旋した義家は神の恵みに感謝し、公自ら兵器を奉納しました。文明8年(1476年)8月、長尾景長は境内社木伐採の禁制を出し保護を加え、その後の元和7年(1621年)11月、江戸幕府より20石の朱印社領を許されていますが、この時の設計図や費用明細書などが現存しています。
当社は八幡太郎源義家・義国父子の手厚い信仰により源姓足利氏代々の氏神として保護されてきました。明治4年に社格が制定され、同5年郷社、同35年には県社に列せられました。
当社は古くは足利荘八幡宮と呼ばれ、下野国内第一の八幡宮として、下野国一社八幡宮、一国一社八幡宮とも称しました。
三韓征伐:神功皇后、応神天皇、武内宿禰

御社殿・文化財
多数の指定文化財などのご案内

はちまんぐうほんでん
八幡宮本殿

文化11年(1814年)再建され、三間社流造拝一間、銅板葺瓦棒付。

八幡宮の現在の社殿は文化11年(1814年)に造り直したもので、このときの図面が残されており、この設計図に基づいて造り直されたようです。飾りの彫刻も、江戸時代後期の特徴をよくあらわしています。[県指定 昭和40年4月6日]

八幡宮本殿内「二十四孝図屏風」について

中国の有名な孝行話
二十四孝図屏風は中国において後世の範として孝行が特にすぐれた人物24人を取り上げた書物で日本に伝来し仏閣等の建築物に人物図として描かれている。
二十四孝図屏風は二双屏風で24の故事が描かれていて狩野派の狩野元信様式の屏風で狩野永徳の20歳の頃の若描のもの。
本物は福岡市博物館に所蔵されている。
その一つの場面でたけのこのお話があり、母親の病気がたけのこを食べると治るという事をきいて冬の野山に息子が探しに行き苦労のあげくに探し出し母親に食べさせ病気が治ったという場面もある。
また二十四孝は古典落語の演目として10代目桂文治師匠が得意とした。

八幡宮本殿彫刻について

東側彫刻(八幡太郎と将兵、水を得るの場面)
永正6年(1051年)陸奥(東北地方)の豪族安倍頼時が反乱、「前九年」の役が始まった。八幡太郎義家は父頼義に従い、天喜4年(1056年)参戦、当初は苦戦が続き食糧不足に加え、折からの日照りで将兵は極端な水不足に悩まされたが義家が弓杖にて地面を突いたところ、八幡神の加護に因り大量の水が湧き出し喉を潤した将兵は多いに力を得たと云う
北側彫刻(神功皇后、三韓征伐の場面)
日本書紀巻九に依れば、神功皇后九年冬十月、神の託宣を受けた神功皇后は髪を髻に結い、男の姿となり和珥津(津島上県郡鰐浦)を冬十月に出發した。皇后軍は、飛廉、陽候そして海の中の大魚の扶けに依り労せずして新羅に到る。新羅の王、波沙寐錦(伝説的王)は、皇后軍の勢いに恐れ戦き、即ち素旗を掲げ自ら降伏したとあり、「新羅王」が「神功皇后軍」に降伏した場面の図
西側彫刻(衣川の戦いの場面)
康平五年(1062年)源頼義は出羽(山形縣、秋田県)の長、清原光頼とその弟武則に応援を依頼し秋九月、漸く衣川、厨川の柵を破った。敗走する安倍貞任を衣川に追い詰め、源義家は敗走する貞任に対し「衣の館は綻びにけり」と和歌の下の句を歌いかけた。それに対し、安倍貞任は「歳を経し糸の乱れの苦しさに」と返した。その歌心に感じて貞任めがけていた「矢」を外し、そのまま引き上げたと云う

八幡宮本殿附八幡宮本社再建図

文化11年(1814年)に再建された際の図面。この設計図に基づいて造り直されたようです。

はちまんぐうはいでん・へいでん
八幡宮拝殿・幣殿

八幡宮略記によると、明和年間(1764年~1772年)に造りなおされた建物です。厳かな中にも華やかさがあり、江戸時代中・後期の特徴を良くあらわしています。[市指定 平成3年1月22日]

八幡宮拝殿天井板絵及び大絵馬

八幡宮拝殿の天井に描かれた彩色の板絵及び、拝殿長押に掲げられた大絵馬10枚です。天井絵板の制作年代は建物建立の明和7年(1770年)頃と推定され、漆塗りの格子によって72に区切られた格間それぞれに、花鳥画が描かれており、落款から絵師が「重崇」と分かります。大絵馬は江戸時代中期から明治時代までに板に彩色を用いて描いたもので、八幡宮の信仰に関連するものも多くあります。[市指定 平成18年3月24日]

八幡宮拝殿天井板絵及び大絵馬1件10枚について

板絵の制作年代は建物の棟札によって確認される明治7年(1770年)頃と推定される。作者は「絵師学道斎重崇」で市内福居町の宝福寺の絵馬「境内縁日図」を明和6年(1769年)に描いている。大絵馬は板に彩色をほどこしたもの。
画題と制作年代
  1. 神功皇后図:文化(1807年)丁卯十月吉辰
  2. 神功皇后図:天保9年(1838年)戌戌
  3. 神功皇后図:文政13年(1838年)庚寅歳三月吉日
  4. 樊噲図:天明元(1781年)辛巳六月吉日
  5. 弓術掲額:慶応元(1865年)丑年霜月吉祥
  6. 勿来の関(八幡太郎図):明治三十三年(1900年)十二月
  7. 松と鳩図:文政十丁亥(1827年)九月吉祥日 法橋□雲写
  8. 湧水図(源義家):嘉永五壬子(1852年)閏二月吉日
  9. 衣川合戦図:文化二歳(1805年)八月吉日
  10. 御神馬図:明和八歳(1771年)卯三月吉日

どうぞうとりい
銅造鳥居

高さ3.95m、周囲約3.55m。寛政7年(1795年)、佐野天明の鋳物師 荒井源七宗明、丸山林八長暉の合作で、近郷の有志が献納したものです。柱に転びがあり、笠木、島木の先端が内斜に切ってあるなど、この時代の特色をよく表しています。[市指定 昭和42年9月19日]

ほうもつかん
宝物館の文化財

八幡宮の春・秋季大祭と、足利市の文化財一斉公開日のみご覧になれます。

延文記録

延文2年(1357年)の記録。八幡宮は昔は神佛集合であり、大略現在の山辺小学校のところに別当寺院の神宮寺があって、その僧侶も八幡宮の諸祭典・諸行事に奉仕していました。その南北朝時代初め頃、一年間の八幡宮の諸祭典・諸行事を神宮寺側・僧侶側から記録した「年中行事書」です。「延文」は北朝の暦年号です。[市指定 昭和34年2月17日]

大永化縁状

大永3年(1523年)に書かれた記録で、戦乱(応仁・文明の乱)によって荒廃した八幡宮の境内や社殿を復旧するため、広く資金募集を訴えた際の趣意書です。「化縁状」とは「勧進帳」の意味であり、広く復興費を募っていたことがわかります。[市指定 昭和34年2月17日]

天正時代の足利の地図、八幡郷検地帳及び名寄帳

上杉謙信の指示により作られたと伝えられ、杉原紙30枚の冊子である、首尾欠落しているため、年代執行者等判明しない。ただ後正月とあるので閏正月の年であることが判り、本文の反別書に反、大、半、小を用いられているところから見れば、太閤検地以前である。本件には少ない貴重なものである。縦25.5、横18 安土桃山時代。[市指定 昭和44年4月25日]

下野國一社八幡宮所蔵資料

古文書を中心に絵図や絵画など計2572点の資料で、古くは文明8年(1476年)8月の「禁制(長尾房清)」にはじまり、昭和38年(1963年)の「節分議員名簿」に至るまでの約500年間にも及びます。江戸時代から明治維新にかけての八幡村の歩みや、幕末維新期における社家縣家当主の静鎮隊の活動を示す文書等、あまり世に出なかった維新史の側面も知ることができる史料も含まれています。なお、八幡村以外の旧足利郡の村々のことを知ることができる文書にも注目できます。[市指定 平成和23年3月22日]

写真:桃形兜(ももなりかぶと)軍功により小出伊勢守秀政が太閤秀吉公より賜ったとされる

交通案内
ご参拝お待ちしてしております

公共交通機関をご利用の際は、東武伊勢崎線「野州山辺」駅からのアクセスが便利です。また、駐車場も50台ご用意しておりますので、お車でのご参拝も可能です。

交通機関
東武伊勢崎線「野州山辺」駅から徒歩7分
東武伊勢崎線「足利市」駅から徒歩22分(車で5分)
JR両毛線「足利」駅から徒歩33分(車で8分)
北関東自動車道「太田桐生IC」から6km(車で11分)
北関東自動車道「足利IC」から7.5km(車で15分)
駐車場
一般駐車場50台(八幡宮のとなりです)
車いす使用者用駐車スペース2台(八幡宮境内)
思いやり駐車スペース3台(八幡宮境内)
車祓い場1台(八幡宮境内)
門田稲荷神社